Log(きょうごく)

きょうごくのLog

都内在住の大学生の日記風ブログです。いや日記です。

高校二年生の春、ぼっちすぎて人生最大の危機だった

今週のお題「人生最大の危機」

 大学のテストも終わって僕にも夏休みがやってきた。永遠にも思えたテスト期間が終わってしまえば、もう今年度も折り返しかと今度は1年の短さを感じたりする。なんとなくこの2019年度上半期を振り返ってみると、僕の記憶に鮮明に焼き付けられたような出来事が何もなくて、ちょっと寂しい。でもだらだらと気ままに過ごした学生生活も悪くなかったと何年か経った後に思うのだろう。4年程経った後にあの時は最悪だったと振り返ることもあるのだから、だらだらとした半年も悪いもんじゃないはず。

 

 

 4年前の4月、僕は高校2年生だった。僕の通っていた高校は田舎によく見られる「自称進学校」だった。つまり上から下までピンキリだ。クラスは文系のクラスが2つ、理系のクラスが2つあったが、それとは別に文理合同のクラスが1つあった。このクラスはいわば特進クラスみたいなもので、どっちかというとまあまあできる人がかき集められ、3年間クラス替えがほとんど行われないクラスだった。ちなみにこのクラス内でもやっぱりピンキリだった。

 僕はこのクラスに2年生の時に入った。「入った」という言葉を使ったが、気分的には「編入」だった。メンバーがほとんど変わらない上に他のクラスとは違ってクラス間の合同授業も全くないせいでコミュニティが小さくて濃度も高く同じ学校内でも半ば隔離されていた。そのため「分離クラス」と言われたりした。1年生まで文理クラスじゃなかった僕も文理クラスの友達は1人もいなかった。同じ部活や同中のやつも運悪くいなかった。

 人生で一番ぼっちな時期がこのときだ。「人生最大の危機」なんてお題はこのエピソードには大仰だけど、僕にとっては地獄だった。よくある話だけど、既に確立されたコミュニティに放り込まれた僕は見事にクラスに馴染めなかった。授業と授業の間の10分がすごく長く感じた。それまでは一息つくための10分が急に息苦しくなった。その10分の度にトイレにいった。もちろん僕が頻尿だったわけではない。昼休みは意味もなく廊下を往復したり、時には他のクラスの友達のもとへ避難したりもした。ぼくは当時の経験のおかげで便所飯をする人間の気持ちがよく分かる。学期始め、出席番号の関係でちょうど教室のど真ん中に机があった僕が1人で弁当を広げているのは良いさらしものだった。少なくとも孤独で卑屈になっていた僕は1人弁当を広げながらそう感じていた。さらしものになるくらいなら便所のほうがマシ、となるのだ(それでも僕は便所でのご飯に多少の抵抗はあったし、便所じゃなくても逃げ場所はたくさんあったけど逃げたら負けだと思ってなるべく教室で弁当を広げていた気がする)。心配性の母さんにはお昼時にはグループに混ぜさせてもらっていることにしていた。母さんの作る豪華なお弁当は、もしかしたら話題のきっかけになればという思いでますます豪華にしていたのかもしれないけど、全く披露する機会はなかった。母さんもなんとなく分かっているような気がして、つらかった。昼休みの度に憂鬱になり、帰って弁当箱を母さんに渡す度に悲しくて、申し訳なかった。

 4月から3か月くらいはずっとその調子だった。当時は今より強く思っていたが、人付き合いが下手ではないという自負のあった僕は友達の1人くらいは作れるはずだと必死だった。普段よりもより明るく振る舞った。名前と顔を覚えるよう努めた(名前入りの体操服がダサいと不評だったけれども僕にはありがたかった)。編入組だから勉強が分からないという口実はよく使った(というか実際にこのころは勉強もついていけてなかった)。でもなぜか最初の3か月はずっと1人で弁当を食べていた。気軽に「一緒に食べよう」と言える人も言ってくれる人もいなかった。何度か誰かと一緒にお弁当を食べたけど、その時間はインターバルの10分よりも時計の針がゆっくり進んだ。

 ようやく地獄から抜け出せたのは7月頃だった。はっきりと覚えている。きっかけは学園祭だった。学園祭の準備で機会的に分けられたグループでクラスメイトとお昼を食べた時、なにかがふっきれたようにそのクラスメイトと仲良くなれた。それまでなぜだかギクシャクとしか会話できなかったのに、その時になって急に踊るように会話が弾んだ。会話の内容も特別変わったものじゃなくて、授業や学園祭の話題や先生の悪口とかそんなんだった。今でもなぜあのとき仲良くできたのかよくわからなくて不思議だ。それからはあっという間にクラスに馴染めた。3年生になった時には「1年生の頃からいたんじゃなかったけ」と言われるほどに馴染んだ。泣きそうになりながら過ごした僕の人生最大の危機の3か月を覚えているクラスメイトが誰もいないのも本当に不思議だ。